感覚の扉が開くと見えてくるもの
北海道の撮影を終え、今は関東へ戻るフェリーの中だ。
この号が掲載される日曜には、撮影したフィルムの整理や、現像の準備で忙しいことだろう。
前回、日の出と同時に満月が沈む話しを書いたが、先日夕張で日没と同時に満月が昇るのを見た。
夕張は山あいの場所なので、地平に沈む夕日のように劇的ではないが、
今まで気付くことのなかった小さなエピソードが、旅をすることで身近になった。
経験は、良くも悪くも、人間の感性を左右する。
新しいものを求めて旅をしているのに、気がつくと、以前撮影したところばかりを廻っていることがある。
廃墟の小さな空間でも同じことが言える。
窓から差し込む光、ガラスのかけら、はがれたベニヤ、、、などと、
言葉で追っている自分に気付くと、新しいものは見つからない。
しかし、何かの偶然で感覚の扉が開くと、今まで見えなかったものが次々と見えてくる。
廃墟の暗がりで、水溜りが凍っている。このモチーフを見つけたのは2001年。
被写体そのものが抽象画のようで、平面芸術として完成された美しさを感じた。
まるでフレーミングされているかのように撮るのは簡単で、少し傾きを変えて2枚撮った。
そのときは仕上げるのは簡単だと思ったが、実際プリントを始めるとこれがなかなか難しい。
最初の展示は撮影から10年後の2011年。
さらにその翌年にサイズアップしたものをもう一度発表している。
それまではずっと試行錯誤を繰り返していた。
なぜ難しいのか?印画紙を選び、大きさを決めて仕上げ始めると、
撮影時には認識されなかった具体的なモチーフが見えてくる。
小鳥だったり、鯨だったり、デフォルメされた顔のようだったり。
それがプリントの大きさや濃度で、まったく違うものに変化する。
もちろん、それは面白いと思うのだが、撮影時の直感的な印象をはっきりと再現したい。
そう思うと、形や輪郭よりも面としての情報量が多い、大きいプリントサイズが向いている。
写真学校の学生時代から、写真は抽象的な表現に適していると考えている。
だが、見る者にとって、それが写真なら、被写体が何なのか?と言う疑問で、そこから先に進めない人もいる。
泥の写真で展覧会を開いたときに気づいたのだが、その泥に小さな鳥の足跡が一つあるだけで、急に関心を示す人がいる。
つまり、それが入り口になるわけだ。
左上の枯葉や、さらに拡大すると見えてくる、氷の中に閉じ込められた綿毛のような種子。
この写真にも同じような部分がある。